A3!第三部前半に対する何か。感想というより感情。
再掲(初出2021-07-08 23:01:36)
一回しか読んでないオタクが自分の好みに最大限引き寄せて読んだやつです。
第九幕は第二部までがどうしても役者の話になるから綴くんの脚本家としての側面と演劇オタクの演劇への熱や感情にフォーカスして物語の幅を広げるのかな〜と思って読んでた。
後に失われた日々を求めてるのは誰かな〜とかぼーっと見ている場合ではなかったことに気づく。
紬くんの演劇に恋しているという一連の流れもオタクだ!板の上は気持ちいいもんな…!くらいで流してた。流すべきではなかった。
全部がひっくり返るというか全部が丁寧に舗装された道であったことが発覚する第十幕じゃん。
俺はごくごく軽度だが源義経のオタクをやっている。
夏草や兵どもが夢の跡。平泉だ〜〜〜!!(おおよそ義経の最期の地だと思ってください)(そういう句だし)
このタイトルで源義経の最期のみにフォーカスする八角さんの、散り散りになった初代MANKAIカンパニーへの愛着と哀愁よ…。
これの脚本が、自分の遺言通りに上演されるという状況が実現することに込めた願いのデカさよ…!
櫛の歯が抜けるように欠けて行ったメンバーが一度集まってこの劇を最後までやること、舞台の幕はここで降りるがお前たちは悔いなくこの先へ行け。なんですよね…。義経公の霊と、海尊の成仏だよ…。海尊のことはまた後で喋ります。
一方で主役二人の出会いから、仲間が集まり別れる(別れない)ところまで全部やっちゃう新生MANKAIカンパニー。
源義経には平泉での死亡説とそこからさらに北上したという説があって北上説をとると北海道に行ってたりモンゴルに行ってたりするのですが
わたしは北上説のことを物語の源義経を愛した人々の願望が結晶化したものだと思っています。
様々な種類のフィクションで幾度となく語られてきた大人気キャラクターに死んでほしくなかった人が物語をTHE END出なくFIN...で締めたかったから生まれた説。
わたしは閉じない物語が大好きなので綴先生の大ファンなのですが綴先生に義経書かせたらこのルート突入は確定でしょ〜の気持ちで読みました。
で、故・八角先生に喜んでいただきたいのがあなたが初代のみんなに投げかけた悔いることはないというメッセージに対しての未来はありますというアンサーなんだよな…。
八角先生はそもそも返事を受け取るつもりで脚本を書いていないのでこれを受け止めるのは初代のメンバーしかいないわけですが。
過去から解放された亡霊たちを再びMANKAIカンパニーという舞台に引きつける、関わることを求めるという最高のアンサーだよなーとザウリは思いました。なぜならFINで閉じられた物語はまだ終わっていないので。
THE SHOW MUST GO ON。
メタ読みとしてこの辺に確信を持ったのは永久に囚われた悪魔の主人公である、特定人物が繰り返す人生に執着する悪魔。
悪魔を演じる紬さんの執着が演劇に向いているものであるのは十分に説明されているので人生とは芝居である系の読みをしてもいいのかな、と。
繰り返し上演される劇と生まれ変わりという現象のオーバーラップを綺麗だなーと思いつつ幕が降りたらそれで終わりというわけではないのだ、物語は永遠である。なのかな〜と思ったりなどした。
ここうまく説明できてないな。
そんで弁慶と海尊の話なんですけどここ、二人の脚本家の色というか二人の脚本家の意図がめちゃくちゃ出てて好きだなー!と思いました。
弁慶はまぁ言わずもがなな源義経の家来で、時には義経を食うほどの人気がある怪力無双の荒法師です。
一方の海尊は物語としては多分義経を守れなかった後悔を抱えたキャラクターであるという側面が強い。
八角さんは完全に当て書きで初代メンバーの後悔の話を書いたんだなぁ…っていうかもう完全に八角さんから初代メンバーへのお手紙なんだよな…。になりました。
弁慶は、綴先生が選ばなかったエンドでもわりかし満足して死ぬ系キャラなのですがここの対比とあと脚本家がそれぞれの目的に対して主演をどこまで立てるかの対比がめちゃくちゃ好きだなというお話でした。
役者としての自分を表現するために準主役もめちゃくちゃ大事な脚本を上げて来る先生の負けん気が大好きです。
そんな二人の脚本家の共作となる満開公演!めちゃくちゃ楽しみにしています!
ところで劇の尺が同じだったとすると盛り上がりはあるが明るい展開は少ない逃走劇からの暗めエンドと
出会いから別れまでで定番の山場も複数あり希望のある終わり方をするエンタメだと圧倒的に票がエンタメに偏るだろと思ってたら
A3バースの大衆は演劇に対して目が肥えているのでそんなことはなかった。これはわたしがA3バースのことを良く理解していなかったというだけの話です。