ザウリの散文倉庫

映画、ゲーム、観劇、美術展の感想などと左利きライフ。

トイ・ストーリー234の敵の話とか

再掲(初出2019-07-17 00:54:40)

 

4の感想というかギャビーギャビーが好きだった話というかロッツォハグベアが好きな話というかプロスペクターにはあんまり思うとこがないので比較はするけど期待しないでください。

 

おもちゃ達の子供への依存がまぁめちゃくちゃ好きで、3のロッツォとウッディは自分を愛してくれた子供を忘れられないおもちゃとして出てきたと思うんですけどデイジー固執し続けたロッツォとアンディから次の子供にというビジョンを持てたウッディの違いがそれぞれのエンディングにつながったんだと思ってました。

でもよく考えるとウッディたちはアンディにずっと大切にされていたので次の子供のビジョンは3の冒頭ですでに持っていてその時はアンディの子供って思ってたのが結末的にはボニーだったんだけど覚悟はある程度できてたんだと思う。

一方でロッツォは物理的においていかれて必死の思いで家に帰ったら自分のいたはずの場所には別人がいてみたいな悲劇。ロッツォの好きなところにあそこでデイジーの目の前に出ていけなかったところがあるんだけどデイジー、ロッツォの”代わり”は必要だったけどビッグベイビーは多分なくしっぱなしなんだよね…。もしかしたらデイジーはロッツォハグベアを二体所有する女の子になったかもしれないと身勝手な視聴者として思うんだけどロッツォはそんなビジョンは持てなかったから子供に恨みを募らせるしかなかった。

子供を憎いと思う分だけデイジーへの依存が強くなるという構図だったんだと思う。

 

一方でギャビーは多分おもちゃの根源的な欲求である子供と遊びたい子供に所有されたいの対象に自分のいる部屋であるアンティークショップに唯一やってくる子供であるハーモニーを選んでハーモニーのためにという感情でいろんな行動を起こしてる。

子供に選ばれてその子を主と決めたおもちゃたちと違ってギャビーは最初から自分の持ち主を自分で決めてたんだよなぁ。”欠陥”があると愛してもらえないの部分はなんかもうちょい描写丁寧にしてほしかったなーと思うけど。ハーモニーが壊れたおもちゃはいらないとか言った描写なかったよね?ギャビーの思い込みだよね??(補聴器つけた子供が当たり前にいる作品の中であまりにも雑じゃない?)

結果としてギャビーはハーモニーに拒否されてしまって、でも最初から自分で持ち主を選べるおもちゃだったからああいう結末になったのかな。ってあれは拒否されるのを恐れずに自分の持ち主(になってほしい子供)の前に現れることのできたおもちゃだったんだなぁって思ってやっぱりデイジーの前に姿を現すことのできなかったロッツォが好きだなぁってなりました。

 

んでギャビーやロッツォを見てておもちゃにはインプリティング的な本能(初めに見た子供を主人と思う)が備わってるのかなーって思ったんだけどそこでプロスペクターですよ…。完品のまま博物館に飾られることを強く望む脇役のおもちゃ…。子供に一番に愛されるのは主役級のおもちゃたちだから別のところに自分の価値を見出すことにしたおもちゃ…。小物等の欠けが発生することを強迫観念的に恐れるおもちゃ…。

 

うーん、2はまぁ20年くらい前の作品だからいいとして4の”欠陥”の扱いの雑さを思うに障がい者配慮の観点でトイストーリーだめだな?って気がしてきた。ギャビーとフォーキーが好きだったので4アゲのためにまとめたいなって思ったのに無理にアゲる必要ないかなって結論がでてしまった…。

 

おもちゃの本能の話とフォーキーの話は絶対にかわいいんだって。必要とされた結果おもちゃとしての自我に目覚めるフォーキー…。必要としてくれたのが子供でなくてコレクターだったからあぁいう自我を獲得したのかもしれないプロスペクター…。

 

4は、3が持ち主から離れたおもちゃの行き先として描いた地獄のような保育園の部分をフォローする作品として必要だったと思うんだけどなんか、複雑な気持ちのまま感想が終わる感じになってしまいましたね…。

まぁ、おもちゃを大切にしている子供視点だとなくすと保育園に行くもおもちゃが自分の意思で自分から離れる。も等しく悲しいしどっちがより悲しいかは子供によるだろうから結局3で傷ついた子をフォローしつつ4で傷つく子を生んだという構図かなぁ。

 

そういえば腹話術人形はおもちゃではないんだな。ギャビーに付き合ってくれてたいい子たちだったんだな…と気づいた。おもちゃじゃない人型の無機物たちはみんな動けるっぽい世界だけど、おもちゃではないのでお友達あんまりいないのかもしれないな…。

この話ボー・ピープはおもちゃではないんですが!?という怨嗟につながるのでやめよう。